私は基本的にはこれは「無い」と考えます。
これについて良く保護者や生徒にお話しさせてもらっている事があります。
みなさんのお知り合いにも言動をみていて「この人キレ者だな!」とか「頭良さそう!」と
思われる人が少なからずいっらっしゃるでしょう。
私の中学時代の友人にT君というのがいました。彼に関して、私は上記のように頭が良さそうとかそういうことを感じたことは一度もありませんでした。
ですが、彼には努力がありました。すでに他界してるのですが私の父は元海上自衛官で当時一棟当たり20家族ぐらいが住んでいる自衛隊の官舎に住んでいました。
T君も同じでしたが、彼の父親は他の子供たちの父親に比べて多少役職が低かったそうです。そこで彼の母親はことあるごとに彼に対し「あなたのお父さんはみんなのお父さんに負けているけど、あなたは決して負けないで!」と言い続けていたそうです。
中3のある日のことでした。理由は忘れてしまいましたが彼に社会の教科書を借りる機会がありました。中を開いてみるとやけに汚い。驚いて聞いてみると彼は答えました。
「中学卒業するまでにすべての教科書を3回鉛筆でなぞっている。」と!
並大抵の人ができることではないし、私自身もここまではできません。
前述の通り彼自身にキレを感じたことはありません。ですが、もし努力する、努力できること自体が才能なら彼は天才と呼べるのかもしれません。
結局浪人はしたようですが、彼は東大に行きました。
彼の存在を知っているがゆえに私は努力でできないことなど殆どないと思っているのです。
小学校中学年ぐらいから徐々に子供たちの学習面での順列が出来上がってきます。
そして、一度出来上がってしまった順列はなかなか覆せません。
そして子供たちは自分自身の位置を決めてしまいます。これにはいくつかの理由があります。ひとつには親の諦め。親が我が子を「この程度」と思ってしまったら例え口に出さずとも子供はそれを感じ取ります。そして上を目指すことをやめてしまうのです。そしてもうひとつ大きな理由があります。
それは褒められるということを知らないのです。成績の良い子は褒められて育ってきます。ですから益々気を良くし、また褒められたいがゆえに勉強し自分自身もプライドを持つようになります。ですから余計に差が開いていくのです。
また、必ず生徒には志望校を書かせているのですが、数年前からこんな傾向が目立ちます。
それは、自分の今の学力でいけそうな高校を第一志望にして、それよりランクの高い高校を第2志望にしてしまうのです。鶏口牛後という言葉があります。
意味:大きな集団や組織の末端にいるより、小さくてもよいから長となって重んじ られるほうがよいということ。
多少意味は違いますが上位の高校で後ろのほうにいるなら、ひとつランクを落としてでも上位にいるべきではあります。
ですが、目指すなら鶏口ではなく牛口であるべきです。はじめから鶏口を目指していたら
牛後どころか鶏後になってしまいます。常に上を目標に頑張っていくべきです。
「今行きたい、行ける高校より偏差値5上の高校を第一志望にしてください。」
決断は最後の最後で構わないのです。
努力の結果勝負できるなら上位高校を受験するもよし、上位と勝負できる力を身につけた上で本来行こうと思っていた高校に余裕をもって行くもよし。それは最後に決断することです。
それに関してはこんな生徒もいました。地元の中学校で中位ぐらいだったのですが、正直この成績では O高校(偏差値56~58)は合格しません。上位3割にはいないと厳しいでしょう。
でも、どうしてもO高校に行きたいという強い希望でダメもとで受験しました。
結果中学校の先生も驚いていたそうなのですが、彼女は合格しました。
高校入学後に担任から「本当に最下位で合格した。」と言われたそうです。
しばらく連絡をとっていなかったのですが、昨年用事があって連絡しました。
すでに高3で進路決定時期だったので聞いてみると、なんと国立大の合格を蹴って浪人するとのこと。最終的には高校の中で30位ぐらいはキープできるようになったので、
浪人して慶応大学を目指すということでした。中学校の頃の彼女からは考えられないほどの躍進です。結果はまだ聞いていませんが、このように大化けするケースもあります。
子供達には無限の可能性があるのです。
ここ10年ぐらいでしょうか。非常に夢のない子供たちが増えています。
私は入塾面接の際に必ず子供たちに「将来の夢は?」という質問をしています。
これに対する返答は8割方「特にない。」です。
これは子供たちが将来を絶望しているのでしょうか?私は違うと思います。
近年の情報化社会においてあまりに情報が多すぎて子供たちが情報の取捨選択をできないのです。つまり、何を目標にすればよいか?世の中にどんな職業があるかを知らないのです。
まずはここからはじめましょう!目的がなくて人は努力できるか?否!これは私達の子供のころを思えばお分かりでしょう。人は目的なくして努力することはできません。
決断するのは本人ですが、子供たちの見聞を広めさせ道を示してあげるのは親の務めと考えます。
子供の自主性に任せるのはそのあとです。